My grandma passed away on the 25th April at the age of 87 after a month of being hospitalised. Until mid March, she came to our place to look after my little one and cook lunch every Tuesday and Wednesday. But she got pneumonia and became ill so bad so quickly.
母はわたしが小さいころは勤めていて忙しく、朝家を出ていって夜中に帰ってくる、"ときどきおもちゃを作ったり買ったりしてくれる人"だったから、代わりに祖母がいつもそこにいた"ママ"だった。
小さかった頃のわたしは、自治会だ、集金だ、買い物だ、リコーダーのレッスンだと、ママがどこへ行くにも連れ回され、団地のあちこちの棟を登ったり降りたりさせられていた気がする。
ピアノもママに習った。いつも学校の宿題なんていいから、ピアノのお稽古しなさいっとピアノの部屋に入れられて、嫌いだったから、その下にある絵本を読んでいた。でもその絵本だって、たかね子ども文庫を主催していて、絵本が好きだったママが長年集めた「こどものとも」などだった。わたしが生まれた頃に発売された、林明子さんの絵本や、14ひきシリーズ、レオレオニのシリーズもママが買ってくれた。
わたしが都内で絵の展示をすると必ず見に行ってくれたし、イギリスに留学したときは、食料をいっぱい詰めた箱を送ってくれたり、伯母と2人で遊びにきてくれた。
ついこの前『じょやのかね』がミュンヘン国際児童図書館に飾られることが決まったときは、購読していた岩波の『図書』からめざとくその児童図書館についての記事を見つけ出し、「これ、ティンちゃんの絵本が飾られるっていう図書館についての記事でしょう」と持ってきてくれた。
チビが生まれたときは、誰よりも喜んでくれて、毎週、船橋から電車を乗り継いで、チビの面倒を見にきてくれた。沐浴やオシメ替えなどまでしてくれたし、わたしがちょっとでも仕事ができるようにと、ベビーカーに乗せて散歩にいったり、2人だけで近くの公園に行ったりまで、していた。幼稚園入園前は毎週月曜日、入園後は毎週水曜日がヒーバーご飯の日で、チビが好きなこんにゃくの煮物とかうずらの卵とかをいつも作ってくれていた。
ママからわたしのアドレスに送られてくるメールは、いつの間にかすべてチビ宛て。幼稚園行事の日付まで確実に把握していて、遠足の日となると「遠足はちゃんといけたかな?」みたいなメールが入ってきた。
3月15日もいつも通りで、母が上田旅行中だったので、「今日はえりかがおいしいおやつを持ってこないだろうから」、「普段買わないから、どこにあるだろうとスーパーでずいぶん探しちゃった」っと言いながら、ママがホットケーキミックスを持ってきてくれて、チビと2人で焼いてくれた。
でもその翌週、風邪をこじらせたのか肺炎になり、近所の人が心配して入院させてくれたと、寝耳に水の連絡が入った。歩いて面会室に来れるくらいだというので、2週間くらいで退院できるに違いないと家族みんな思っていたのに、数週間経ったときには肺の状態が入院時よりも悪いと言われ、あれよという間に余命3日宣告をされてしまった。
病院は、本当は12歳以下は面会禁止だったけれど、面倒を見たひ孫たちということで、いとこの子2人も合わせて3人とも、最後だからと特別にこっそり部屋に入れてもらった。
チビは、髪の毛ボサボサでゼーゼー息をする、見慣れぬヒーバーの姿にぎょっとしてしまっていたけれど、「ヒーバーの絵、描く!」と言い出し、指に挟んだパルスオキシメーターや、絆創膏だらけの点滴の差し込み口などまで、真剣に観察して描いていた。ヒーバーも、息が苦しくてあまり話はできなかったけれど、チビの最新の絵などを見る事ができた。
そしてそれが、わたしたちが会えた最後だった。
1961年に高根台団地に越してから、62年に渡り高根台に住み続け、まだ現役で自治会の活動などをしていた人だったので、葬儀は地域でお世話になった人たちも呼んでお別れ会をした。いとこと2人で夜なべして作った、ママの思い出写真の動画を上映したり、電子ピアノを持ち込んで伯母の伴奏でみんなで歌ったり、ママらしいお別れ会になったと思う。わたしも久しぶりにリコーダーサークルの人たちや、幼稚園の先生にまでお会いできて、これもママが交友関係をとても大事に生きてきたからだなあと思った。
とても近しいヒーバーだったので、4歳児がどうやって"死"を認識するか、ちょっと心配だったのだけれど、最後にお見舞いに行ってからは「ヒーバー、今どうしているの? どんな感じなの? 見たい、今の写真ないの?」っと聞き続け、何が起きているのかを真剣に知ろうとしていた。葬儀の日もチビは至って冷静に好奇心旺盛で、お棺の中の顔に触って「ヒーバー冷たいね。なんで?」 手紙と天国で使えるお金と電車の切符なども作って、棺に入れていた。そして、焼かれて出てきた骨の中に、人とわかる顔面の部分を見つけると「絵を描く!」っと観察をはじめた。外科の家に生まれ、病院の手伝いをしていたママの血を確かに受け継いでいる気がした。
なんとなくまだ現実でないような気がして、なんとなく火曜日の15時過ぎになったら、ピンポーンってインターホンが鳴って、ママがやってきそうな気がする。いつもなかなか来ないと、どこかで倒れているのではと心配するわたしをよそに、呑気に「近くの農園でモロヘイヤを買っていた」などという人だったから。
家の中にも、まだあちこちに、ママが毎週来てくれていた痕跡がある。古いカーテンを使って作ってくれた洋服ダンスの前にかける布とか、テーブルの上を整理するためにと勝手に100均で買ってきた籠とか、ママが植え替えてくれたパンジーとか、ママが繕ってくれた布団とかチビの服とか。いつも我が家にやってきては、頼んでもいない仕事を見つけ出しては、せっせとあちこち磨いたり、繕ったりしてくれている人だった。いつもごめんごめんっと言いながら、そんなママみたいに完璧な家事はできないんだってばって思っていた。でもそうやってママがそっといろんな家事や育児をやってくれていたから、伯母も母もわたしも、子育てしながら時間が膨大にかかる好きなフリーランスの仕事を始められ、続けられたのだと思う。
最後まで"ママ"をしていたママ、本当にありがとう。